人の目に触れる言葉をつづるということ

投稿: 2005年10月22日

最近、 RSSリーダーを使うようになって、これまでなら見向きもしなかった人のブログやら日記やらをよく読むようになった。多くのブログは、示唆に富んでいて、僕自身の視野を広げてくれていると感じる。しかし、一部の個人的なものは、どうも感情的で、こちらの精神状態がよくない時 (忙しかったり疲れていたりするときですな) には、読んだことを後悔してしまう。

そういうものの多くは、そのブログなり日記なりの筆者が、自分自身の境遇をかわいそうなものだと考え、そしてそれについてあれこれ書いているものだと思う。やれ世の中が悪い、だの、やれ他人のマナーがなっていないだの…。まあ、一理ある場合も多いのだが、感情論の中でそういうことを言われても説得力に欠けてしまうのだ。 (だって、そういうのって、ほとんどが上ばかり見ていて、「下を見たってきりがない」ということを完全に忘れてるとしか思えない書き方だから。)

僕が文章を書くときになるべく意識しようと努力していることに、「言葉にはパワーがあり、それを発した人、それを受け取った人の両方の気持ちに大きな影響を与えるものだ」ということがある。これは、たまたま出会った Webページに書かれていたことを僕なりに解釈したものだが、本当にそうだと思う。常に「疲れた」と言い続けていると、実際以上に疲れているような心持ちになるだけでなく、周りの人にもいらぬ気遣いをさせてしまったりする。何事にも否定的なことを言っていると、自分自身の生き方にも否定的になってしまうし、さらに悪いことには、それを聞かされ続けている家族など、周りの人の考え方まで否定的、悲観的にしてしまいかねない。

だから、人に読まれる可能性がある文章を書く時は、なるべく気をつけて言葉を選ぶようにしている。また、何かしらの意見を書きたいときには、なるべく論理的に書きたいと考えている。もっとも、感情的な部分が完全に抜け落ちてしまえば、それは僕の気持ちの入っていない意見になってしまうから、ある程度は感情的な内容も含まれる。 (と言って、完全に感情論を排せないことの言い訳をしておこう。) そういう意識を持っている僕の立場からすると、個人的な文章を人に読ませる人の気持ちが理解できないというのが正直な感想だ。そんなの日記帳に書けば、どんなプライベートなことだって書けるし、人からとやかく言われる心配もないし、後から読み返す時にも、より書いた時の心の中を見られていいような気がするのだ。

かと言って、そういう日記を公開している人を非難するつもりもない。やはり人にはいろいろな考え方があると思うから。じゃあどうしてこんなことをここに書いて公開してるのかって? まあ、たまたまそういう気分になったからですな。というのと、自分のスタンスをはっきりとさせておくことによって、ここを時々読んでくれている数少ない人たちに、僕の考え方の一端を伝えておきたいという気持ちがあるからでしょうか。

そしてもう一つ。そういう文章を書いている人の気持ちを思い、彼らの目で物事を見る機会を得られることを、ありがたいと感じられるような心持ちでいたいとも思うので、彼らに感謝することはあっても、避難するつもりなど全くない、ということも書き添えておきたい。

PS: ということを書いた僕ですが、話が人の生き死にとか、人の強い気持ちとか、そういうことに及ぶと時として感情的になってしまうことがあります。そういうのが嫌いな人は、タイトルから判断して読み飛ばしてくださいね。