テキサス・インターン物語 (5) --- 夏到来 ---

投稿: 2006年8月21日

僕が初めてオースティンへ行ったのは、 1988年の 8月のことだった。空港を出 てまず驚いたのは、日差しの強さだった。空気の暑さを感じるのではなく、日光の暑さを感じる、そんな強烈な太陽だ。空全体が、上から押してくるような、そんな圧力のような物すら感じられるほどの強い日差しだ。 ``Texas oven'' という表現があるが、まさにそんな感じ、つまりオーブンの中に入ったような感覚だ。 (もっともオーブンの中に入ったことなんかないけど。)

その1988年から 13年後、 2001年もオースティンは暑い夏を迎えていた。そう、オースティンの夏は暑いのだ。強烈な日差しが、馬鹿みたいに暑い夏をもたらすのである。気温は連日 35度以上。ちなみにこの気温、華氏では 95度以上、聞いただけで解けそうである。そして実際にはほとんど毎日、華氏で 100度 (摂氏では38度程度) を超えるのだ。昼間に外に出る気などしない。エアコンを力一杯働かせても、西日が当たる部屋などは全然涼しくならない。当時僕が住んでいた家で、西日が当たらないのはベッドルームくらいだったので、必然的にこの季節は昼寝の時間が長くなった。

余談だが、この年の 8月の半ばに日本から遊びに来た友人は、この暑さにかなりまいっていたようだ。彼は、旅行先では徹底的に観光をしたいたちらしいのだが、彼がやって来て三日目くらいの朝、「今日はどこ行くの?」と尋ねたら、「暑いからどこにも行かない」、という返事が返ってきて驚かされた。ともかくそれくらい暑いのである。

さて、そんな大変な夏だが、僕が当時インターンをしていた学校の生徒たちにとっては、楽しみにしていた夏休みの時期だ。 6月初旬から 8月中旬までのな間、日本とは違って宿題のない夏休みが彼らにとっては楽しみなのである。ちなみに '88年には夏休みは 9月の初めの labor dayまでだったので、どうやら少し短くなったようだ。

夏休みの直前、つまりその学期の最後の日には、卒業式が行われる。僕がいた盲学校の場合、小学校入学前の子供たちから、高校生までが在籍していた。そして、学齢的には高校を卒業しているはずだが、職業訓練的なものを受けるために残っている生徒も少なからずいた。この学校には、最長で 21歳まで在籍できることになっていた。そして、卒業式で送り出されるのは、そんな 21歳の生徒たちを含む高校の卒業生たちである。僕はそんな卒業式が行われていた講堂の左後ろの出入り口のすぐ側の椅子にぽつりと座り、この学校に来てからのあっと言う間の2ヶ月のことをあれこれと考えながら、複雑な思いで卒業式の様子を眺めていた。

この盲学校へ来てからの最初の 1ヶ月は、いくつかの教室の見学をして過ごした。そして、残りの 1ヶ月は、そんな教室のうちの二つの教室を行ったり来たりしながら過ごした。初めのうちは単に授業を見学していただけだったのだが、やがて生徒たちもいつも教室の片隅にいる変な日本人の存在に慣れてきたのか、先生が他の生徒の質問に答えていたりする時などには、僕に質問してくるようになった。最初のうちはきわめて簡単なことしか聞かれなかったので、簡単に答えるだけで良かった。しかし、彼らの質問はだんだんややこしい物になっていき、気づいてみれば一人の生徒に 10分とか 15分とかいった時間付きっきりになって指導するなんてことも少なくなくなっていた。そして、いつの間にか見学者ではなく、教員補助のような立場になってしまっていた。

初めのうちこそとまどいながら生徒たちに対応していたのだが、慣れてくるにつれ、この不思議な立場が意外にも僕の性に合っているらしいことに気づき始めた。質問をされて答える、ただそれだけのことなのだが、自分の知識や経験に基づいて一つ一つの質問に対応し、そして時には驚くほど深く感謝される。そして日を追う事に力をつけていく生徒たちの姿を目にする。やりがいのある仕事だと思う。

僕がしたことが、実際に彼らの役に立ち、世の中の役に立つかどうかは、実は随分先まで分からないと思う。だから、その瞬間はやりがいがあると思っていても、実はそれは錯覚かもしれないとも感じる。彼らが僕とのやり取りから得た知識や経験を後々有効に利用するかどうか、そしてそういった知識や経験がそもそも有益なものなのかどうかは、彼ら自身が決めることである。僕ができることは、彼らにとってなるべく有益なものを与える努力をし続けることだけだ。そして、それが十数年後、数十年後につながることを願うのみだ。そういう意味では、初等中等教育というのは、自分のやったことに対する結果がなかなか出ない仕事だと言えよう。しかし、前述のように日々生徒たちの成長を目にできるという点では、すぐに結果が出る部分もそれなりにあるわけで、不思議な仕事でもある。

およそ 1ヶ月の時を彼らと過ごし、自分の居場所や果たすべき役割のような物も見えてきていた。そして、一部の生徒たちには受け入れてもらえたような気もする。生徒の中には、情報処理の授業時間のほとんどを実質的には僕が担当する形になっていた生徒もいた。ともかく、僕はそれまで感じたことのない種類の充実感を持つようになっていた。

この学期末、この盲学校を去っていくのは卒業生ばかりではない。アメリカの多くの州では、視覚障害児の教育は基本的にはその生徒が住む学区の一般校で行い、失明直後など、専門的な視覚障害児教育が必要な場合や、重複障害を持っていて地元では対応できない場合などに盲学校に就学するようになっている。したがって、一般校での指導が困難な、点字、歩行、情報処理などに関して、ある程度のスキルを習得した生徒たちは、盲学校を去り、地元の学校に戻っていくことになる場合が多い。僕が受け持っていた生徒たちの中にも、この学期末で盲学校を去っていく者が何人かいた。本来ならば、生徒たちがそうして力をつけて去っていくことは喜ばしいことのはずである。しかし、実際には不安の方が多いことだった。彼らの指導をしていく中で、この生徒には知っておいて欲しいことがまだまだある、もっと教えたいことがある、と思わされることがしばしばあった。そして、そういったことのほとんどは、おそらく一般校に戻ってしまえば教わる機会のないことだと思われるからだ。そしてもちろん、短い時間ではあったが共に学んだ彼らたちと分かれるのは、やはり寂しいものだった。

卒業生の中にも、僕が何度か指導する機会を得た生徒が一人いた。彼は大学へと進学するらしい。しかし他の二人の卒業生については、詳しい進路は分からなかった。職業訓練を受けていた生徒たちだったようなので、おそらくどこかの授産施設などで働く口を探すのだろう。

僕が一緒に働かせてもらっていた情報処理の先生は、卒業式が嫌いだと言っていた。卒業を祝うと言うが、実際には、ほとんどの生徒たちにとって、卒業した後の道筋が全く見えておらず、その「祝う」という行為が空虚な物に感じられてならないからだそうだ。僕も似たような複雑な思いを感じていた。僕の考えでは、盲学校というのは、視覚障害児に適切な教育を与えることで、彼らが社会に出る準備をし、そして社会に貢献できる人材にしていくためのものだと思う。しかし、実際には障害の程度などいろいろな要因でそれができていないと感じられることも少なくない。そして、そんなことを考えているうちに、果たして自分自身が社会に役立つ人材になっているのかという疑問すら浮かんでくる。 (そしてこの時明白に意識したこの疑問が、今でも僕の中に大きく存在している。)

当初の予定では、僕も卒業式の頃、ここを去り、別の研究組織なりなんなりに行くつもりだった。でも、もうしばらくここにいて、そして今あれこれと考えたこと、浮かんできた疑問への答えを出してみよう、そんな決意が固まりつつあった時、卒業式は終わり、夏休みが始まった。

(第6話へ続く)

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