テキサス・インターン物語 (8) --- 新学期 ---

投稿: 2006年9月9日

7月の終わりにサマースクールが終わると、学校はまた静かになった。しかし、たまたま僕はこの一番人が少ない時期に、視覚障害児教育関連の学会と展示会を合わせたようなものに参加するために、ピッツバーグまで出かけていたので、夏休みに入った直後に感じた、あの何とも言えない寂しさを味わうことはなかった。そして、僕がピッツバーグから戻ってきた頃から、学校にはまた徐々に活気が戻り始めた。 8月の中頃に始まる新学期の準備などのために、先生たちが顔を出すようになっていたのだ。

新学期も、僕は中高生の情報処理を教える先生の教室に留まることにした。なるべく多くの生徒が学んでいく過程を知り、多様なユーザが持つ多様なニーズを知りたいと考えたからだ。新学期に入って、これから初めて情報処理教育を受けるというような生徒もいた。僕は、彼らの学習過程におけるなるべく早い段階から、なるべく長い期間、彼らが学ぶ様子を観察することが重要だと考えていたので、これまで通り、情報処理の教室に留まって、これから学んでいこうという生徒たちと時間を過ごす以外の選択肢は全く考えていなかった。

今学期から中学生になって小学校の教室から移動して来た者、何らかの事情で地元の一般校での修学が困難なため新たにこの盲学校へ来た者、最近失明し、まずは専門的な教育を受けるためにやって来た者、などなど、新学期には新しい生徒も少なくなかった。そしてもちろん、先学期からいて、僕もよく知っている生徒たちもたくさんいた。そんな生徒たちの多くは、それぞれいろいろなバックグラウンドを持ち、そしてそれぞれに努力している子供たちだった。僕は彼らから少なからず刺激を受け、そしていろいろなことを学んだと思う。僕が直接指導する機会が多かった生徒たちを中心に、そんな印象的な子供たちについては、今後じっくり書いていきたいと思う。

新学期に入って、僕の生活にも変化があった。この学期からこの学校では、高校を卒業した後に大学入学や受験の準備をしたい視覚障害者を受け入れるプログラムを試験的に始めたのだが、そのプログラムに参加する男性が僕の同居人になったのだ。教育実習おじさんのことがあったので、別に同居人ができるということに関して何とも思っていなかったのだが、蓋を開けてみるとこれが意外と大変だった。まず彼は、基本的には生徒ではないので、生徒たちが生活している寄宿舎には入れられなかったという経緯がある。つまり、学校側としては、彼を大人として扱い、そして彼にも大人として振る舞うことを期待していたのだと思う。しかし、実際には彼はつい最近高校を卒業したばかりで、また中高生にも知り合いが多かったこともあり、普段の行動は何ら生徒と変わらないもののように見えた。その一方で、僕の当時の立場は、どちらかと言うと教員に近いものだった。したがって、直接指導するような間柄ではないが、生徒と先生が一緒に住んでいるような状況になってしまったのだ。そして、表面上は大人と付き合うふりをしながら、実際には生徒と付き合う心づもりで生活をしなければならないというのも意外と骨が折れた。人によってはこういうことは全く気にならないのかもしれないが、僕にとっては随分いらぬ気を遣わされる、大変な生活だった。

9月に入ったある日、この同居人が「僕の部屋に友達を泊めたいんだけどいいか」と聞いてきた。僕は彼を指導監督する立場でもなんでもないから、「いい」と言う以外に選択肢はなかったということもあり、特に深く考えることもなく承諾した。ところが、彼が連れてきた友達というのが、きっと同世代であろう女の子だったのには驚いた。もっとも彼は僕に彼女を紹介してくれるでもなかったため、どういう関係の誰なのか、というようなことは一切分からなかった。いろいろなことを考えると、学校側がこのような状況を好ましいものと考えていないことは明らかだったが、彼を大人として扱う以上、僕の立場からは何も言えることはなかった。これは実に居心地が悪いな、と思った。そしてその夜、彼の部屋から漏れてくる妖しげな声を耳に入れないように努力しながら、これは先が思いやられるな、僕はそんな風に考えながら眠りについた。ところで、後で効いた所によると、この時の彼女には既にフィアンセだか夫だかがいたというから呆れてしまった。

このことがきっかけになって、僕は校外にアパートを借りて暮らすことを決断した。とりあえず、翌朝担当者に状況を報告し、その時空いていた別のゲストハウスを使わせてもらう許可を取り付けた。そして僕のアパート探しが始まった。

アパート探しは思ったよりも簡単だった。まず、家賃の相場が全く分からなかったので、とりあえずインターネットでいろいろと調べてみた。場所によっても違っていたが、まあ 500から 750ドル払えば十分広くて、かつそこそこ安全な所に住めそうだということが分かった。次に、不動産業者に連絡を取ってみようと思ったのだが、その前に、何かと世話になっていた、やはりこの学校で教員をしている昔からの友達に相談してみた。すると彼女は、「じゃあ今度このあたりを一緒に歩いて、貸家のサインを出してる所を探してあげるよ」と言ってくれた。いろいろと聞いてみると、アパートを探すような場合は、不動産業者を通すよりも、このような方法で探すことも多いのだそうだが、アメリカでアパート探しなんぞはしたことがなかったので、全く知らず、少々驚いたものだった。それで、彼女が最近貸家のサインを見たという、学校から徒歩数分の所へ、数日後に行ってみた。すると空き部屋が二部屋あって、環境的な面なども悪くなかったので、早速サインにあった番号に電話してみた。すると、至極簡単に話が進み、その日の午後に管理会社の事務所へ行って契約することになった。

日本で僕が民間のアパートを探す場合、目が見えないことを理由に契約を断られることが大変多い。だから、不動産屋で物件を探す段階で、不動産屋が大家の性格を考えて、そもそも契約してくれそうにない所には最初から当たらないようにすることが多い。それで選んだ物件を実際に見に行くのだが、その段階で大家が断ってくることもある。そして、そこもクリアして契約段階になって断られることもある。日本で障害者とか外国人とかが部屋探しをしようと思うと、このような経験を少なからずするのではないかと思う。 (もっとも家賃数十万とかの物件をターゲットにしている外国人とは無縁の話だろうが。) そんなわけで、契約段階で何が起こるか分からないなと思いながら管理会社へ行ってみた。ところが、話は拍子抜けするくらい簡単だった。そこにいた初老の女性と雑談するような感覚で、僕がどこから来て何をしているのかなどといったことを気軽に話していたら、アシスタントのようなことをしている人が書類を持ってきて、言われるがままにサインして契約管領である。契約が終わった後もうしばらく雑談をしていたら、一緒に行ってくれた僕の友達と、その管理会社の女性には共通の知人がいることが分かり、さらにその場が和んだ雰囲気になった。そんなこともあってかどうかは分からないが、僕が何も家具を持っていないと言ったら、ソファーやテーブルなどを貸してくれることになった。ありがたいことに、冷蔵庫は元々備え付けられているようだったので、引っ越しに伴って買わなければならないものは、思いの外少なくてよさそうだった。ともあれ、こうして日本とは比べものにならないくらい簡単に部屋が見つかり、数日後に引っ越すことになった。

契約が終わって、僕は心配事が一つ減ってちょっとだけほっとしたことを覚えている。部屋探しを始めた時、僕にとっては最も大きな心配事だったこの件も、契約をした 9月 12日には、さして重要なことではないようにすら感じられていた。そう、僕の心の中も、 5年前のあの時アメリカにいたほとんどの人がそうだったように、激しくかき乱されていたのだった。

(第9話へ続く)

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