つい昨日のことだ。駅から自宅への帰路のこと、歩道を歩いていると前から自転車がやってきた。僕が歩道の端へよけると、自転車も逆の端へとよけたようだった。どうやら母親の自転車の後ろを、子供が自転車に乗ってついてきているらしく、「お母さんの真後ろを走りなさい」という声が聞こえてきた。ただ、すれ違った時、母親の自転車は歩道の端を走っていたのだが、子供の自転車はやや真ん中よりを走っていた。すると、先ほどと同じ人物の声とは思えないような怒り狂った口調で、「真後ろだっつってんだろ!!」と怒鳴り立てる声がした。なにかもごもごと言い訳する子供の声、そしてそれを聞こうともせずに汚い言葉で罵り続ける母親の声は、やがて僕の背後へと去って行った。
僕は苦笑した。子供がかわいそうにもなった。そしてその子供が将来どういう言葉遣いをする大人になり、やがてどんな親になるのか、本当に心配になった。そんなことがあったばかりの今日、産経のニュースサイトイザ!に掲載されていた記事が目に止まった。
「てめえ歩くのはえーんだよ。もっとゆっくり歩けっていってんだろ」
近所の量販店で買い物をしていると、ヒステリックな女性の声が聞こえてきた。若い恋人同士の会話なら気にもとめなかったのだが小学生ほどの子供が高齢の男性に向かって話している言葉と分かり耳を疑った。
(中略)
「その少女の回りはそんな言葉遣いをする人たちばかりなんでしょう。母親も友達」
兵庫県警で少年犯罪を担当している警察官に話をすると、真っ先に少女の「言葉」を案じる答えが返ってきた。そして、「学校も家庭も、子供と大人が友達感覚で話をする時代。この少女も、人を敬うような丁寧な言葉遣いを学ぶ場がないのだと思います」と。
(後略)
なるほど、ああいう風に育てられた子がこういう風になるのか、と合点がいってしまった。僕が昨日耳にしたやりとり、上記の記事で紹介されているやりとり、いずれも立場的に自分に対して強く出られない相手を敬う気持ちを持ち合わせていない人の言動のように感じられる点が気になる。立場が強い者から敬われることなく育てられた子が、自身よりも立場が弱い者を敬う気持ちを持たない人間になってしまうのは自然なことであるように感じられる。
自分よりも立場が弱い人のことを敬えなければ、立場の強い人だって敬えないのではないだろうか。相手を敬う気持ちを持たないということは、相手の気持ちを思いやることができないということなのではないかと思う。そしてそのことは、相手に自分の言いたい事を理解してもらう最善の方法を思いつくことができないことにつながり、結局上で挙げた例のような感情的な表現になってしまうのではないだろうか。そして感情的な表現をぶつけられた相手が気持ちよくそれを受け入れる訳もなく、ますます言いたい事が伝わらない、そんな悪循環が生まれてしまうのではないだろうか。
そんな風に考えながら自分自身の言動を振り返ると、必ずしも昨日の母親や記事の少女を批難してばかりもいられないような気がしてきた。彼女らのような言葉遣いを日常的にするようなことこそないものの、時には全ての人に敬意を持って接するべきであることを忘れ、感情を抑えきれずに言いたいことを言ってしまうようなことがあるのだ。そして、そんな風に感情を爆発させた結果として、自分の言いたいことが相手に正しく理解されたことは、おそらくほとんどないと言っていいだろう。自分が発する言葉を、もっと大切にしたい、そんな風に改めて感じる。
こういった人々の言動がきっかけで、自分自身の行いを振り返ることができた僕は幸運だと思う。彼らは、こんな風に自身の言動について思いを巡らすことがあるのだろうか。そして、僕のような幸運な大人たちは、いったい何をすればよいのだろうか。

コメント (1)
dean (2007年6月 7日 (木) 16:49):
大人にため口をきく子供たちと、高校時代のダチとしゃべるように
子供に口をきく親(たいてい母親)。
最近、ファミレスに入るのも憚られるのは、こういったやりとり
があまりにも目に余るから。
でも、それに対して我々はどうしても部外者になりがち。
どうしたらいいんでしょうね。
子供は家庭のものであり、しつけも家庭内で行うという考え方が
中心のラテン系民族は、しつけの悪い母親をしっかり怒るという
話を聞いたことがあります。
それに対して、ゲルマン民族は子供は社会のものだと考える傾向
があり、しつけは、親でなくても社会がしっかり行う。
私が子供のころ、公園で鳩を追い回していたときや、お年寄り
がいるのにバスに座っていたときに、見ず知らずの人たちから
こっぴどくしかられた覚えがありますが、そういう事例はすべて
イギリス在住のときでした。
難しい問題ですが、日本ではどっちでもないので、考える必要がありますよね。