山崎 夏生: 「プロ野球審判 ジャッジの舞台裏」

投稿: 2012年5月1日

たまたま目にした「パ・リーグ一筋29年、歴代1位17回の退場宣告をしたベテランが明かす〝もう一つの激闘〟元プロ野球審判が告白 「乱闘寸前ジャッジの舞台裏」」という記事、審判から見た野球のの裏話の紹介的な記事なのだけど、ここで紹介されている本が表題の本。僕みたいな中途半端な野球好きでも思わず読みたくなってしまった。

この本は3部構成になっている。第1部は著者山崎さんが審判の立場から見た名選手について書かれている。これは僕くらいの年代の野球好きにとってはなかなか面白い。懐かしい名前も少なからず登場するし、彼らのすごさを一番近くで見ていた人の話しだからやはり説得力が違う。

第2部は判定に関していろいろと書かれている。特に興味深かったのは日本の「野球」の審判と、アメリカの「ベースボール」の「アンパイア」の違いについてだった。 (これについては後述)

第3部は、山崎さんがどのように審判になって、そしてどのような審判だったかという話。野球が好きなら第1部も第2部も面白いのだけど、何と言っても第3部が僕には一番読み応えがあった。

そもそもプロ野球の審判ってどんな人がやってるの? どうやったらなれるの? そういうことは野球が好きでもなかなか知る機会がない。審判の肉声を聞く機会なんて、何らかの判定に関して観客に説明してくれる時くらいで、他にはなかなかない。 (もちろんストライクとかボールとか、そういう判定の声は放送を通しても聞こえてくるけど。) 僕が唯一ちゃんと話を聞いたことがある審判 (正確には元審判) は、審判引退後に日本放送の野球解説をやっていた平光清さんくらいだ。 (平光さんのお名前の字を確かめようと思ってWikipediaを見ていたら、去年お亡くなりになっていたことを知った。何だか寂しい。)

第3部には、子供の頃の山崎さんがどんな風に野球とかかわりながら育って、そして最終的にはプロ野球の審判になった経緯が詳しく書かれている。とにかく努力の人だというのが一番強く印象に残ったが、どんな苦労があったのかといったことも多く書かれていて本当に読み応えがある内容だった。読み応えがあるだけに僕の薄っぺらな感想なんかではなくて、ぜひ多くの人に本を読んでみて欲しいと思う。 (まあ僕の文章力がないだけなんだけど。) 野球が好きじゃなくても、きっと得るもののある内容だと思う。

こういういろいろな苦労を、少なくとも現役時代には表に出すべきではない仕事なんだと思うけど、こういう苦労をしているのだと知っていれば、たとえ誤審があってももっと敬意を持って見られるのではないかとも思った。もっといろいろな審判の話を聞いてみたいと思わされる内容でもあった。

さて、読み応えだあった第3部の感想よりも長くなってしまいそうな気がするけど、第2部を読んで考えたことを少し書いてみようと思う。上述の通り、第2部で印象に残ったのは、日本の「野球」の「審判」とアメリカの「ベースボール」の「アンパイア」の違いという話だ。詳しくは本を読んでいただくとして、おおざっぱに言うと日本の野球における審判は「間違えない」ことを求められ、アメリカのベースボールのアンパイアは時に間違えることが前提なので、そのような場合にもゲームを裁けるように「尊敬される人物である」ことが求められるという話。これには「フェア」ということに対する日米の考え方の違いが現れていると思ってすごく興味深かった。

日本の場合、システムをしっかり作ってそれを忠実に運用していくことによって、誰に対しても、さらにいえば (一定の能力を持ってさえいればという前提はあるけど) 誰がやっても同じ結果が出る、ということがフェアなのだと考えられているような気がする。この場合、フェア (公正) というのは、野球で言えば審判が選手に対してフェアである、という意味合いが強そうだ。一報でアメリカの場合、選手同士がfairな精神を持っているかとか、選手が他の選手や審判を騙すような行為をしないとか、そういう意味合いでこの言葉が使われているような印象だ。だから審判の役割は、もちろんルールに則ったゲームの進行 (システムの運用) ということもあるのだけれど、選手のfairnessを監視して、フィールドの中にunfairなことが起こらないようにする、という役割が強いのではないかという気がした。こう書いてみると、結果として日米どちらもやることは同じになりそうだけど、背景にある考え方が違えば、やはり本にあるようないろいろなジャッジの違いも出てくるのだと思う。

こう考えてみると、日米の「フェア」に対する考え方の違いというのは、野球に限った話ではないような気がしてきた。障害者として暮らしていると、上に挙げたような違いが背景にありそうな日米の対応の違いに遭遇することが少なからずあるように思うのだ。例えば、銀行で口座を作る時なんかが良い例だ。日本で僕が一人で銀行に行って口座を作ろうとすると、多くの銀行の窓口では書類を自分で書け、と無茶なことを言ってくる。欠けないから代筆して欲しいと頼むとだいたい「規則でできないことになっている」の一点張りだ。もし眼が見える同行者がいれば、間違いなくその人に代筆してもらうように言ってくる。これがアメリカだと、(少なくとも僕の経験では)同行者がいてもだいたい窓口の行員が代筆してくれる。日本では全ての人に同じルールを適用することが公正なことで、アメリカでは現場の裁量で対応して結果として全ての人が同じサービスを受けられるようにすることが公正なことだと考えられているような印象があるのだ。 (もちろん日米共に例外は山ほどあって、例えば日本の市役所とか区役所の窓口はかなり新設だ。後税務署も。で、アメリカは担当者の当たり外れが激しい!)

話を野球に戻そう。それで、この審判とアンパイアの違いの背景にある考え方というか文化の違いについて、日本のそれもアメリカのそれも、どちらが良いとか悪いとか、そういうことではないような気がした。日本ではそうやってアメリカとは違う形で野球が育ってきて愛されてきた。試行錯誤しながらこれからもいろいろな変化があることだろう。その結果としてアメリカの野球と同じようなものになるかも知れないしそうではないかも知れない。それはそれで良いと思うのだけど、気になるのは結構重大な違い (だと僕には思える) がある中で、野球を国際的なスポーツにしていくことは本当にできるのだろうかという点だ。使うボールを変えるとか、そういうハード部分で国際化をしていくことは可能だし実際進められていることだと思うけど、根底にある考え方が違うままで大丈夫なのだろうかと思うのだ。フェアネスの定義が違うのは国民性の違いで仕方がないことだけど、野球におけるフェアネスというのはこうなんだ、というのが一致していないと、やはり審判に対する不満が出てしまうのではないだろうか。かと言って、国際試合のフェアネスと国内の試合のそれが異なるのでは益々ややこしいから、最終的にはどこか一つの方向に向かって修正していかないといけないのではないだろうか、そんなことを考えた。

とまあ、いろいろ脱線して書いたけど、野球が好きなら文句なしに面白い1冊、好きじゃなくても山崎さんという努力の人の物語はきっと印象に残るだろう1冊だと思う。