[独り言]: 年を取ったことを感じる季節

年を取ったなあと感じることが増えてきた。体力の衰えとかは、普段鍛えてない人なら結構若い時から感じ始めることだと思うし、飲食の量とか傾向とかが変わってくるというのも、30を超えたあたりからなんとなく感じ始める人が多いんじゃないか、少なくとも周囲の人たちと話しているとそんな印象があるし僕自身もそうだった。でも僕が最近感じている「年を取った」というのは、もっとこう精神的な話なのだ。

大学という所で仕事をしていると、毎年この時期に社会に出て行く学生を見送ることになる。学生の中には学部入学直後から知っていて、そして修士課程を無事に終えるまで6年もの間それなりに近い場所で接し続けてきたような人もいる。

言うまでもないことなんだけど、この時期の6年とか4年とかいう時間というのはものすごく大きい。6年前に高校卒業直後にやってきた人たちが、修士論文なんかを仕上げて立派に成長して去って行く。子供っぽかった人たちが、大人になっていく時期なのだ。

だから毎年こんなことを感じる。彼らは着実に成長している。実に喜ばしいことだ。僕自身が彼らの成長に貢献しているとはとても思えないけど、彼らに出会えて、そして成長する姿を見られたことをすごく嬉しく感じるのだ。

その一方で、僕自身はどうかというと、この4年とか6年で大して成長していない。もう成長する必用がないというのならばともかく、とてもそんな立派な人間ではないわけで、まだまだ成長する必用はあるにもかかわらず、だ。

自分が変わることに対して臆病になる、失敗して修正するということに対する抵抗感が上がる、なにであれ失うことを恐れる、そんないろいろな弱い気持ちの蓄積が、成長が遅くなること、あるいは成長しないことにつながっているのではないかと毎年反省する。そして、こういうことが悪い意味で年を取るということなんだろうなあと思って、なんとなく寂しくなったりする。

ただ、僕は恵まれている。毎年こういうことを考える機会を得られるのだから。もし大学という職場を離れても、この時期になるときっと毎年同じようなことを考えるだろう、と思うくらいには毎年同じことを考えている。

それから、これは年を取るということよりは、単にライフスタイルの変化、みたいな話だと思うんだけど、最近は春が必ずしも出会いの季節ではなくなってきたなと思う。

大学関係に限らず、春は今でも僕にとっては「別れの季節」だ。昔は、それをなんとなく寂しく思う反面、春は「出会いの季節」でもあるから楽しみ、なんてことを思っていた。ところが、最近は「出会い」というのは年中いつでもばらばらと訪れる感じだ。なのに別れは春に決算のように訪れるから、本当に寂しくなってしまう。

昔は、春から新学年とか、春から新しい職場とか、何かしら春が節目になるような生活をしていたし、その節目が人間関係に与える影響も大きかったのだと思うけど、今はどうもそうではないらしいのだ。周囲の人たちにとっては相変わらず春が節目だから、彼らはどこかに行ってしまったりする、だから別れの季節健在。でも僕にとっては節目じゃないから、出会いには結びつかない、出会いの季節霧消、ということなのかな、などと思う。

で、この春が節目ではなくなってきた、というのがなんとなく年を取ったということなのかも、などとも思ったのだった。

さて、寂しがってばかりいてもそれこそ成長できないので、僕は僕ができることを淡々と続けるだけだ。そういう日々の活動の中から何かを学んで、少しでも成長する、さもなければ今まで吸収してきたものを少しでも社会に返す、そうありたいものだ。

なんてことを、ここ最近はTwitterに書き散らかすことが多かったのだけど、こういうことはブログに書いた方が良いような気がちょっとだけしたので、久々にこういうことを書いてみることにした。ちょっとTwitterの使い方を考え直した方が良いかもな、などと思ったりもしているもので。 (そのあたりについてはまた考えがまとまったらここに書こうと思う。)

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このブログ記事について

このページは、Maxが2013年2月24日 21:18に書いたブログ記事です。

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